No.59柳橋~かつて日本一粋な花街

作成:令和2年3月
■柳橋 <纏め>

 かつては日本一の花街”柳橋”を散策。今はマンションとビルで面影ないが、鉄筋製の柳橋に”髪飾り”がデザイン化されて残っている。 また稲荷神社の石碑に昔の料亭の名前が残っており、栄華を偲んでいた。

<内容>  井之頭公園を起源とする神田川の行きつく先”隅田川”(昔は”大川”)の合流地点が新橋と並び「新柳橋」と呼ばれる東京二大花街の一つ柳橋が存在していた。大川(隅田川)沿いは料亭が立ち並んでいたが、今はマンションやビルが建ち並び一部の場所のみ。  神田川(”川っぷち”)沿いは、屋形船のお店が多数あり(今はコロナの影響で人影まばら)。

(1)花街「柳橋」の歴史
・江戸中期(文化年間、19世紀初頭)に始まり、洗練された江戸市中の商人や文化人の奥座敷として風光明媚な街になる。  明治期に入り新興の新橋と並び「新柳橋」と呼ばれる東京二大花街の一つ柳橋が存在していた。当時は柳橋芸者の方が格上だった。
・昭和初期には芸子屋195軒、」芸子366名、料理屋・待合62軒を数えたと言われている。代表的な料理屋「亀清楼」は伊藤博文も利用していたことで有名。
・昭和36年頃までが戦後の最盛期で芸子約280名、料亭70軒の記録あるが、その後は衰退の一途だったとのこと。  最後の料亭「いな垣」が1999年(平成11年)廃業し、芸子組合も解散し、歴史に終止符打たれる。

 衰退の原因は、隅田川の水質の悪化、巨大カミソリ堤防の築造による景観の遮断など、風情ある眺望や舟遊びも出来なったこと等々
(2)河岸っぷち”は料亭(昔)
 神田川沿いは”川っぷち”、大川(隅田川)沿いは”河岸っぷち”と呼ばれる。”河岸っぷち”には、柳橋から「亀清楼」「柳光亭」「柳水」……と格式ある料亭が立ち並んでいた(写真の最下段に料亭名が当時の順番で記載)。
現在は「亀清楼」以外はマンションが立ち並ぶ。

(3)柳橋で宴会はいくら?
昭和10年頃に柳橋で宴会をやったら幾らかかるか? 柳橋で料亭に関わっていた方が健在で聞いたら、「50名の宴会で2500円。芸者を呼んで追加で2000円~2500円」とのこと。
 ネットで探したら年代別の給料表(下記写真)発見。一人当たり50円に対して初任給(73円/月)の約2/3が一晩の宴会代、芸者を招くととの倍かかったんですね。
 ドラマで良くある「お座敷に芸者を呼んでこんじんまりとお酒のむ」と一体幾らかかるやら、庶民には想像つきませんね(笑)。

年代別給料

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