No.62-隅田川”橋巡り”(2/2)
作成:令和2年3月
■隅田川”橋巡り”(2/2)
端巡りの第二弾は「008両国橋」から「015吾妻橋」まで
(1)008両国橋
明暦の大火(1657年)をきっかけに、万治2年(1959年)に架橋。 当初は「大橋」と呼ばれていたが、武蔵国と下総国の境にかかることから「両国橋」と改められる。橋の両側に火除地として広小路が設けられ江戸随一の盛り場として賑わった。
浮世絵も多数残されている。 また、隅田川の花火大会の起こりは、ここ両国橋。 享保18年(1733年)全国的な飢饉で餓死者が100万人以上で江戸ではコレラが蔓延多数の死者が出ました。八代将軍吉宗が悪疫退散と犠牲者の霊を慰めるために翌年旧暦5/28水神祭の川開きに合わせて打ち上げられた花火が毎年恒例となり、今に続く隅田川花火大会になってます。
(2)012蔵前橋
関東大震災の復興事業により架橋される。以前は「富士見の渡し」と呼ばれていた。
(3)013厩(うまや)橋
元禄年間から続いた「御厩の渡し」と呼ばれる場所で、橋には馬を連想させるリリーフなどが施されている。御厩河岸(蔵前の米蔵の荷駄馬用の厩)があったことにちなむ。 明治7年(1874年)に民間の手で架橋したのが始まり。現在の橋は、関東大震災の復興計画で架橋。
(4)014駒形橋
「駒形の渡し」と呼ばれる場所で、関東大震災の復興計画で架橋。 橋の名前は、橋の西詰にある「駒形堂」に由来。
(5)015吾妻(あずま)橋
創橋は1774年(安永3年)で、それまでは「竹町の渡し」と呼ばれていた。 江戸時代に架けられた5つの橋のうち最後の橋。
最初は「大川橋」と呼ばれていたが、江戸の東にあるため町民から「東橋」と呼ばれ慶賀名で「吾妻橋」となったという説や向島の「吾妻神社」に通ずる道にあるとの説がある。
関東大震災で橋板が焼け落ちた後、1931年(昭和6年)現在の橋に架け替えられる。
”タテ散歩”の右上に浮世絵(江戸)と現在の眺望を並べてみる。 昔は「富士山」と浅草寺の「五重塔」が、今は「スカイツリー」と「ウンチ💩(切れある泡を表現)」「アサヒビール社屋(ビールジョッキを表現)」が印象的…(笑)